初代社長 近藤寿市郎

~初代社長 近藤寿市郎~

konju
当社の初代社長である近藤寿市郎は1870年(明治3)4月15日、渥美郡高松村(現在の田原市高松町)に生まれました。

明治法律学校(現在の明治大学)にて修業、地元高松村役場勤務等を経て、1923年(大正12)より愛知県議会議員4期、1932年(昭和7)より衆議院議員(立憲政友会所属)1期、1936年(昭和11)より豊橋市議会議員1期、1941年(昭和16)より豊橋市長1期を務めました。

 

この間、1921年(大正10)に単身視察したジャワ島の農業水利事業をもとに、奥三河の宇連川に大貯水池を築き渥美半島などへ灌漑用水路を建設する計画を提案しました。また、三河湾を日本屈指の港として整備し、浜名湖と三河湾を結ぶ運河を建設すること、渥美郡赤羽根村池尻川を避難港兼漁港にすることを提唱しました。しかしながら、当時としてはあまりにも壮大な話であったため、それらの提案は「近寿(こんじゅ)の三大ホラ」と言われたそうです。
後に一つめのホラは現在の宇連ダムおよび豊川用水として実現し、その恩恵により東三河地域は日本屈指の農業生産地に発展したため、近藤寿市郎は「豊川用水の生みの親」として尊敬されています。また、二つめのホラも一部は現在の三河港として、三つめのホラも現在の赤羽根漁港としていずれも戦後になってから立派に実現されており、先見の明があったのだと思われます。

 

その後終戦をむかえましたが、戦時中豊橋市長であった故に同時に大政翼賛会豊橋市支部長の職にあったため、公職追放となってしまいました。既に老年であったため、それを機に政治の世界からは引退することとなりました。
政界引退後、終戦後の食糧増産のため機械での開拓開墾を進めるべく、1946年(昭和21)6月に豊橋政財界人らとともに当社を創立、初代社長に就任しました。亡くなる直前に病気で倒れるまで当社社長として指揮をとっておりましたが、1960年(昭和35)4月14日に89歳で亡くなりました。

なお、1955年(昭和30)には功績が称えられ豊橋市の名誉市民となっています。

 

参考文献
近藤寿市郎著「今昔物語」